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【そらごとマーケターズ】作品語り『わたしときみと、市場と夢と』

更新日:2022年1月22日

1.はじめに

 石川スペアリブ様主催の、架空の同人即売会レポ合同『そらごとマーケターズ』に、『わたしときみと、市場と夢と』という小説で参加させていただきました。

 掌編以外の小説をはじめて書いてみて、とても拙いものですが、読んでいただけたらさいわいです。サンプルの画像に1頁めが載っています。


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 今回は私の書いた作品の作品語りをしてみようと思います。あんまりやると良くないような気がしますが、いろいろと文字で残しておくことも必要でしょう……。

 というわけで一応ネタバレなど注意ということで、書いていこうと思います。



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2.境界域、というわたしのなかの概念

 この話を書くにあたって、一つ大事にしたことがあります。それは「東方二次創作であるからこそ書ける話を書く」ということです。即売会レポというものは別に東方じゃなくても書けてしまいますし、漫画と違って文字のみだと東方キャラのビジュアルを使うこともできません。そこで私は、東方の中に存在する概念を以って即売会というものを表現してみようと考えました。

 しかしそんなことを思ってもどうすればよいか……というところであることを思い出しました。原作の出るコミケや例大祭、紅楼夢、名華祭や大⑨州とか、でかいイベントを行う展示場は割と臨海にある。臨海といえば海と陸の【境界】ですし、そこが埋立地であればもっと【境界線上】であるわけです。

 これは東方の即売会としてはかなりの示唆です。特に原作が臨海で頒布されるのはもっと意義がある。つまり東方の市場というものは境界線上、私のことばで表現すれば【境界域】に出現するのです。(全てが全てそうというわけではないけど、原作の爆心地が臨海であることは基本変わらない。)つまり、私達は境界線上で幻想郷とまじわる。

 ここで小説のテーマが決まりました、【臨海】もっと拡大すれば【境界】を書こう。そうして私の構想ははじまったのです……。



3.即売会の構造は

 テーマはあれど、レポ対象が即売会であるので、その構造を把握しないことには話を書くことができません。

 これは前から思っていたことをそのまま引っ張り出して来たのですが、即売会というのは「舞台」に似ています。演劇でもお笑いでも、能とかスポーツの試合でも結構ですが、大方これらの構造は共通していて「【演者】と【観客】との相互作用【場】が形作られる」という共通点を見出すことができましょう。


参考映像



 これを見ても、演者の発信と観客の反応によって場の雰囲気が形作られているのがわかると思います。

 即売会というものはご周知のとおり、サークル参加・一般参加と、「客」というものがいません。全員が参加者であり、全員が即売会を作るのだという精神が根底にあると記憶していますが、これはまさに「舞台」の構造でしょう。サークルと一般の間に上下関係が存在しない(これは建前の話でもありますが)というのも、「場」の純粋さを深める要素となります。

 即売会は「愛好」の場であって「消費」の場ではありません。サークルの作品を手に取るなりチラ見するなり目にも入れずに通り過ぎるなり、そういうすべての働きが集まって、即売会という「場」が作り出されます。

 「作品」が燃料だとすれば、ありとあらゆる「反応」は即売会のエンジンです。つまりサークルだけでなく、一般参加者がいないと即売会は成り立たないのです。



4.そのときわたしが描きたかったもの

 この作品を作るにあたって、一つだけ明確に意識した小説があります。村上春樹の『かえるくん、東京を救う』です。

かえるくんはうなずいた。「これは責任と名誉の問題です。どんなに気が進まなくても、ぼくと片桐さんは地下に潜って、みみずくんに立ち向かうしかないのです。もし万が一闘いに負けて命を落としても、誰も同情してはくれません。もし首尾良くみみずくんを退治できたとしても、誰もほめてはくれません。足もとのずっと下の方でそんな闘いがあったということすら、人は知らないからです。それを知るのは、ぼくと片桐さんだけです。どう転んでも孤独な闘いです」

村上春樹著『かえるくん、東京を救う』より


 どこをどう意識してあんな作品になったのか、今ではあまり思い出せませんが、かえるくんがみみずくんと闘った地下のボイラー室は、この小説にとっての【純粋創作東方オンリイ】です。


 実は私はコロナ禍によって即売会に参加した人間でした。パンデミック初期の自粛期間、あのときの閉塞感が私を即売会へと駆り立てたのです。それは開放を求める心ではなく強迫観念であって、「なにかしらの実績を立てないと私は何にもなれない」という恐怖感でした。

 そんなかんじで東方アレンジアルバムをこさえて、2020年の紅楼夢に参加したのが初めてのサークル参加でしたが、イベントが終わった後の感覚はとてもすがすがしいものでした。そこそこの赤字をこさえて、焼いたCDの五分の四を持って帰る帰路の中で、「また来年も参加したい、もっとちゃんと頑張りたい」という気持ちが最初に出てきたのです。

 承認欲求も損得勘定も超えて、そのとき私は「場」のとりこになってしまったのです。いろんな達成感の中で、これまで負ってきた瑕が癒えていく魔力を肌で感じたのです。ネット上で承認欲求の鬼と戦いながら、自分一人で創作するしかない状況から、私は即売会の人間となったのです。

 そんな素晴らしい体験、書かないわけにはいきません。


 かえるくんが1995年の東京を救うのなら、私達は2020年以後の即売会を救わなければなりません。そういう責任が目の前にある。そして、きっとかえるくんと同じように、私達も無名のまま死んでいく人間です。しかし、創作の火を絶やさないことで即売会という「場」が守られるのです。

 私が描きたかったのはまさしくそれだったのですが、それをそのまんま書いてもレポにならないので、今回はその前の段階、一人の創作者が即売会の人間となる様子を描きました。しかしその裏には、こういう意図もあったのです。



5.地下の即売会・黒曜石の床の即売会

 話を少し世界観解説に持っていきましょう。

 読まれた際に最も困惑したであろう概念が、地下の即売会と黒曜石の床の即売会でしょう。【純粋創作東方オンリイ】と銘打たれたこれは、言ってしまえば自分自身の頭の中です。正確にいえば、頭の中から去っていったモノたちの吹き溜まりです。


 アイデアというのは思いついた時には素晴らしく世界最上のものですが、すぐに風化して、それがほんとうに碌でもないアイデアだったと気付きます。実現が難しかったり、そもそも作る気力もなかったり。私達は誰しも心の中にワナビを飼っていますが、大体こいつに餌をやるだけなのです。

 そういうことが積み重なると、「本当は私はこれがしたかったのに」という思いに心を蝕まれます。だって碌でもないアイデアでも、一度は愛したアイデアなのです。失恋とまでは行かなくても、ちょっとした瑕を心に残して、未練が残っていくのです。


 物語の終盤で主人公はこの【純粋創作東方オンリイ】と別れます。未練と別れて、即売会の世界へと飛び出すことを自覚します。それはなぜか、次項に続きます。



6.即売会の維持のために

 東方はずっと、いろんな場所でいろんな発展をしてきたコンテンツです。だいたいネット上ですが、個人サイトとか動画サイトとか、最近だとソシャゲなんかも出ましたね。しかし、東方のベースが未だに「即売会」にあるということは、誰しも漠然と思っていると思います。きっとこれからも、それは変わらない。変わるとしたら原作が即売会で出なくなった時だけです。

 そして、二次創作者である私たちはずっと即売会に寄りかかっているのです。それを自覚していようがしていまいが、寄りかかっている事実は変わりません。即売会がなくなってしまえば、参加していようがしていまいが、私達の二次創作はそこで終わりなのです。

 それが自発的な終了でなくて、コロナによる終焉であっても。


 実は、私達の中には市場があります。それは私達の頭の中、胸の中、心の底のアイデアたちです。これまで知覚されてはこなかったけどそれは全て市場なのです、ほんとうに小さいけれど市場なんです。自分が考えて、自分でそれを手にする、無気呼吸の市場です。

 この世界の情勢をみるに、未だ即売会は真の復活を果たしていません。C99もそうでしたが、入場制限をはじめとしたあらゆる制限によって市場は半分閉じられています。その間になにができるかというと、自分の中の市場を知覚すること、それを外に向けようとすること、品揃えのクオリティを上げることです。

 そのためには、自らと向き合うことも、時には重要なのです。


 主人公がなぜ即売会へと飛び出していったか、それはひとえに即売会に「気づいてしまった」からです。このような働きを察知して、自分が居るべき場所を見つけたからです。

 いろんなものがつながっていくこの時代、世界のどこでも何者かになった誰かが何かでかいことを成し遂げているのがよく見えます。生きてるだけで「何者か」になることが強要されているように感じるこの世界、それは創作の世界でも同じです。

 でも即売会という世界、正確にいえば島中には名もなき人たちが沢山います。絶対どこまでいっても名前も残らない誰か、そういう人が可視化されています。即売会というのはそういう人たちに存在意義を与える場でもあるのです。ただそこに居るだけで意味がある、「場」を作る働きというのは救世主なのです。


 逆に即売会の側から見ると、何者でもない人が即売会を支えているのが見えます。そう、私たちは無自覚のうちに「かえるくん」になっていたのです。

 しかしそれを自覚してしようとすると、もう1プロセスが必要です。それが「何者にもなれないということを受け入れる」ことで、主人公もそれを受け入れたのです。即売会という場で、自分が負った責任を受け入れたのです。

 全ては、即売会の維持のために。自分をしっかり肯定してあげるために。



7.孤独なかえるくんの、即売会アフターごはん

 ちょっとした余談。この作品は、食堂のシーンで幕を閉じます。これ、実は半分くらい私の体験を下敷きに書いています。

 2020年の紅楼夢後、私は直帰しました。そういう知り合いも居なかったので、すぐさま電車をかわるがわる乗り換えて下宿先の最寄駅につきました。電車の中で現実を取り戻し、自分の現状をかえりみて、なんとなく不安感が心の奥底に湧いてきました。

 その脚で、大学一年の時からよくしてもらっている行きつけの食堂に行きました。閉店近くの食堂は閑散としていて、店主のおばあちゃんと少しお話をしました。初めて自分のアルバムを作ったこと、初めてそれを頒布したこと、初めて在庫が結構残ったこと。全然特別でもない平凡な話でしたが、向こうも商売人なのでよく聞いてくれました。一個もらうわって千円を出されてしまったので、潔くアルバムも渡しました。

 この時、自分の即売会がやっと終わったのだと、嬉しい気持ちになりました。


 世界は明るいところしか見せてくれません。即売会の後に流れてくる、美味しそうな料理とそれを囲む人々の写真に、人知れず心を痛めている人もいるだろうと思います。でも、そうであることが全てではない、人の数だけ即売会の終わり方があって、人の数だけかけがえのない体験があるのです。

 そういうことを伝えたくて一番最後はこうなりました。本当はもっと違う終わり方をする予定だったのですけれど、突然降ってきたこの思い出は、誰かと共有しなければならないものだと、なんとなく思ったのです。


 私は、世の中に数多存在する、名もなきかえるくんたちの即売会アフターごはんにエールを送ります。



8.おわりに

 ここまで読んでくれている人はいるのでしょうか、いてもいなくても恐ろしい。

 本当はこういう自分語りってしない方がしないだけいいのですけれど、したくなってしまったものはしょうがないということで、ここまで書いてみました。あと、別に受け取り方に正解も不正解もないので、ここで書かれていない事を読んでいる間に考えていたとしても、それは尊重されるべき貴方の気持ちなのでどうか大事にしてください。読書は自由!


 最後になんか気の利いた事言えれば良いのですが、わたしにはユーモアがないのでここで潔く筆を置きます。はやり病、そうでない病、どちらもお気をつけて。

 また市場会えればいいね!さようなら!


2022/01/11 なまいと

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