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  • 執筆者の写真なまいと

菅牧をめぐって休まらぬこころ



こんなきもちははじめて。

ここ数ヶ月感、そんな陳腐な恋愛小説のセリフまわしのような気持ちでいる。


東方虹龍洞の頒布からはや一年。なぜだかずっとめぐつかのことを考えている気がする。これはなんとなくの執着ではなく、私の出自にかかわるキャラだからというのが大きい。

飯綱山というのは長野県長野市の最高峰、市内の小学生がだいたい五年生で登る山であるが、そういう場所である以上に、飯綱の山麓はぼくの祖父母が根付き、母が育った場所でもある。何かと縁がふかいのだ。


これは私が紅楼夢で頒布した小説のあとがきにも書いた話だが、この飯綱山という山は、ぼくが祖父からはじめて教えてもらった山の名前である。

それは祖父が畑の方に用水を引くための管を試行錯誤してたときだった。そこはちょうど山間の中でもすこし開けた場所で、向こう側には白く輝く神聖な霊山がそびえ立っていた。その時は5歳だったか6歳だったか、ともかくそんな時分に知っている山なんて「富士山」くらいなもので、富士山だと勝手に感心している自分に、男孫が好きな祖父が山の名前を教えてくれたのだ。これがなにかの贈り物だったのだろうか。その縁は東方へとつながってしまった。

畑の場所は『狐塚』。小字として残っているかもあやしい、地元の地名。塚とは狐の掘った穴。奇しくも古の狐の栖で、わたしはあの山を知ってしまったのだ。


そういうの抜きにしても飯綱は思い出深い場所である。中学生くらいまで大座法師池の飯綱の火祭りに家族で行っていたし、ため池である霊仙寺湖には小さい時と高校生の時に行った。はじめてウグイスの啼きごえを聴いたのも飯綱だし、はじめてスキーを滑ったのも飯綱だ。

そんな思い出の場所が22歳になった年にわずらいの種になった、飯綱丸龍・菅牧典の登場がわたしの郷土愛の危機を引き起こした。飯綱天狗とその眷属のあり方はどう考えたって「思い出の飯綱」とはかけ離れているし、なんか世間では天狗が他所の女と乳繰り合っているしその横でなんか管狐が「そういう」扱いうけてるしほんとなんだそのありかたはそもそもなァ!飯綱と狐のあり方っていうのはなァ!ただそこにあ………………………………………!



思い出はけっきょく過去でしかない。大事なのは未来をどうかするかだ。


世間に解釈違いの菅牧が溢れている限り、ただの「受容」ではわたしの郷土愛というのは達成されない。ほんとうは飯綱丸だって菅牧のことを想っているはずだけれど、世論はどうもそうじゃない。めぐつかが存在しないとわたしの出自も引き裂かれてしまう、そんなのは嫌だ……。

そんな気持ちで頭の中から捻出したのが、同人小説『きつねざか』だった。自分の中の理想を、自分の思い出のフィールドで。そうしながら「めぐつか」の未来を考えてみよう……。

そんな気持ちでやったら、菅牧が消えた。


理想というものを求めると、存在自体が許されない。なんてかわいそうな女の子なんだろうか。菅牧典という存在そのものに向ける憐憫の感情が興りはじめていることに、自分でも不思議な気持ちになる。


名誉のために妖怪データベースを片っ端から読んだり、考察を深めたりするなかで、私の中の菅牧典像は原作と乖離していった。つじつま合わせに崩れていく「完璧な構造」と、非実在の『美少年』は、私の心のなかで融解されている最中である。


どこかに救いはあるのか、妄執の果てに破滅の管狐が手を拱いているのが見えるような気がする。



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